聖書の話 マルコの福音書12章1〜12節「捨てられた石が」

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イエスのたとえ話「ぶどう園」

聖書の要約(1節前半)

11章の続きで、祭司長、律法学者、長老たちに向けて、イエスは、たとえ話をされた。

 11章22節の「神を信じなさい」に抗うかのように、権威などの肩書きや外見の形ばかりを気にして、イエスを認めようとしない、信じようとしない祭司長、律法学者、長老たちに向けてのたとえである。わたし自身も、彼らと同じように見せかけと行いを重視してしまい、肝心の純粋に神様を愛し信じる心を軽んじてしまう。だからこそ、毎日、聖書のみことばに聴くことが大事なのである。イエス様のぶどう園のたとえに心と耳を傾けたい。

聖書の要約(1節後半)

ある主人がぶどう園を造り、そのぶどう園を整えてから農夫たちに貸して旅に出た。

 ここに出てくる主人は父なる神様で、ぶどう園はこの世界を表しているのだろう。農夫たちは、たとえを聴いている祭司長、律法学者、長老たちであると共に、読者のわたしたちも含まれている。わたしたちは、わたしたちが努力してこの世界を造ったわけでも、この世界の所有権を持っているわけでもない。主人である神様によって貸し出され、管理を任されているに過ぎない。謙虚にさせられる。

聖書の要約(2〜8節)

 収穫の時となり、主人はぶどう園の収穫の一部を受け取るべく、貸し出した農夫たちのところにしもべを送った。しかし、農夫たちはそのしもべを返り討ちにして、収穫も何も持たせずに送り返した。主人は、再び別のしもべを送ったが、農夫たちは同じ仕打ちを行った。これが何度も繰り返され、とうとう主人は、愛する息子を送ることにした。主人と同等の息子であれば、敬って収穫を持たせて返してくれるだろうと期待したからである。しかし、農夫たちは、後取りである息子をも打ち殺してしまった。

 主人が収穫の一部を受け取るのは、当たり前の権利であるのにも関わらず、農夫たちはすべて自分たちのものとした。自分たちが主人から雇われている立場であることを無視して、自分たちがそのぶどう園の主人であるかのような振る舞いである。これは、創造主(神)と被造物(人間)という関係を無視して人間が神になりかわろうとする大きな罪である。
 主人のことを敬い、恩に感じていれば、使わされたしもべたちに対してひどい仕打ちなどするはずもない。しかし、農夫たちは、主人のしもべたちに敵対し、殺したりした。敵対することをやめず、何度も何度も繰り返した。先ほどの自分が神であるかのように振る舞う罪は、神が遣わす預言者をも軽んじて敵対する態度となる。最終的には、子なる神様であるイエス様をも受け入れずに十字架につけて殺してしまった。これは、農夫たち、祭司長、律法学者、長老たちだけの罪ではなく、わたしたちにも当てはまる罪である。わたしのこの罪がイエス様を十字架につけたのである。

聖書の要約(9節)

 ぶどう園の主人は、どうしたかというと、農夫たちを殺し、他の人たちにぶどう園を委ねた。

  神の裁きが下った。神を受け入れなかった人々は滅んでしまうのである。そして、受け入れて信じる別の人々に神の国が受け継がれていく。

聖書の要約(10〜12節)

 イエスは、聖書の箇所を引用した。「家を建てる者たちが捨てた石が要の石となった。これは主がなさったことで、私たちには不思議なことだ。」これを聞いた彼らは、自分たちを指してこのたとえ話が話されたことに気づき、イエスに怒りを覚えた。

  捨てられた石はイエス・キリストを指している。家を建てる者は、偽善と見せかけに満ちた祭司長・律法学者・長老たちである。彼らが自分たちの納得のいく家を建てようとしたが、邪魔なイエス様に敵対し、捕らえて十字架につけて殺した。しかし、その十字架が救いにおいてとても重要なものとなった。それは、神様の計画のうちで、神様自身がなさったことだった。なぜイエスの十字架が救いであり、神の家を建てるために重要な要石となったのかはわたしたち人間には理解しがたいことである。

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