「本当の幸せ」 マタイの福音書5章1〜12節
山上の説教
群衆は、イエスさまの話を聞きに色々な場所からやってきました。そこでイエスさまは、山に登られて群衆に教え始められた。イエスさまに何かを求めてやってきた人たちに向かって、天の御国とはどんなところか、天の御国に入れる人たちとはどんな人たちか、話しました。
逆説的な幸い
新改訳2017 マタイの福音書5章3節
「心の貧しい者は幸いです。ー天の御国はその人たちのものだからです。」
普通なら、心が豊かな人が幸いと呼ばれるはずです。しかし、イエスさまは、心が貧しく空っぽな人こそが天の御国に入れると言っています。
例えば、コップを持った人が2人いるとします。1人はお水がたくさん入っているコップをもち、もうひとりは空っぽのコップです。お水がたくさん入っているコップの人は豊かに見えます。しかし、後になって、美味しい特別なジュースがもらえることになると、お水の入ったコップの人はそのジュースを入れることができません。空っぽのコップの人は、喜んで空のコップを差し出します。本当に欲しいもの、自分に必要なものを見分けてコップに入れることが大事なのです。
本当の幸せ
幸せとはなんでしょう?
「今の自分が満たされて満足している」
「周りから見て羨ましがられる生活をしている」
そういう自分の気持ちが変わることで、変わってしまうものなのでしょうか?周りのみんながどう思うか、周りの友だちから羨ましがられることがあるかないかなのでしょうか?
そういうことを幸せとしていると、さっきの空っぽのコップのお話の続きをすると、コップが空っぽであるのが恥ずかしいと思って、空っぽのコップに何か入れようと、満たそうとします。何か手に入れないと、安心できない。他の人のコップの量や中身を見ては比ベて、安心できない。自分が満たされるって何なのかわからない。
イエスさまが言う「心が貧しい者」は、本当に大事にしたいもののために空っぽのコップのままでいるということです。何かを手に入れようとすることや中身にとらわれずに、本当の幸せ、大事にすべきことを見極めて待てる人です。それは空っぽのままかもしれないですし、人からはバカにされることもあるかもしれません。一時的に無くて困ってしまうこともあるかもしれません。
しかし、最終的には、本当の幸せ、本当に大事なことーイエスさまの救いが自分に必要であることー を知っている人は、そのコップにイエスさまの救い=天の御国を入れられるのです。これは決して変わらない幸いです。生きている時も、死んだ後も、決して変わらない神様と共にいられる安心があるのです。
天の報いを大いに喜ぶ
天の御国に入れることは、どれだけの素晴らしさでしょう。本来なら、コップに入りきれないほどの幸せです。その素晴らしさをわかっていない人は、埋まってしまっているコップの中身を出して捨てることもしないでしょう。
罪ある私たちは、神様から離れて、終わりの日に永遠の罰を受けなければなりません。コップに一生懸命に幸せのために入れてきた中身も人生の終わりの日に何の意味も効果も持ちません。そこには、何の喜びもありません。
しかし、イエスさまの救いを信じ、空っぽのコップに入れようとする者は、たった数十年のこの人生ではなく、永遠の天での生活に生きることになります。地上の生きる生活では、苦しいことや悲しいことがたくさんあっても、死んだ後の天の御国ではその分の報いがあると言うことが希望で喜びなのです。
最後に
神様が与えてくれた他に変えることができないプレゼントの救いがあります。その救いをしっかりと心に信じて持って行きましょう。あなたの心に他のものが入り込んでこようとしたり、その救いを取り除けようとしたりすることもあります。そうした邪魔に我慢しなければならないこともありますが、素晴らしい救いを手放すことなく、生きていきましょう。最後に素晴らしい天の報いの喜びを楽しみにしたいものです。