【ディボーション継続チャレンジ!】 創世記17章9〜14節 〜38日目〜

ディボーション

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今日のディボーション

このディボーションや静思の時が形だけになってやらなくてはとなっていくとただ辛いだけ。続けられていることも感謝なことだけれども、神のみもとにいること自体が喜びとなりますように。

主イエス・キリストの 2024年 2月26日(月)聖書箇所:創世記17:9-14(P.38)

<霊的備え>
    こうして 私は神の祭壇に 私の最も喜びとする神のみもとに行き
    竪琴に合わせて あなたをほめたたえます。神よ 私の神よ。 (詩篇43:4)

<理解の手引き>
 主は、アブラハムとその子孫に、契約のしるしとして、割礼を受けるように命じられます。割礼とは、男性の陰茎の包皮を切開、もしくは一部を切り取ることです。この割礼を受けるように命じられたのは、第一にアブラハム、そして第二にアブラハムの子孫です。第三は家で生まれたしもべたちです。彼らは、アブラハムの血筋を引いていません。第四は外国人から金で買い取られたアブラハムの子孫でない者たちです。このように血のつながりのある者たちだけでなく、血のつながりのない者も、外国人も割礼を受けるならば、アブラハムとその子孫に約束された、神の祝福にあずかることができるのです。
 後に、この割礼は形式化し、割礼そのものが特権とされていくようになります。しかし、主が真に求めたのは、「心の割礼」でした。すなわち、心砕かれて心から主に信頼する信仰であったのです。(申命記30:6)

<考えてみよう>
(観察)主がアブラハムに、契約のしるしとして求めたことは、どういう事でしたか?

男子は皆、割礼を受けて、約束の民となること

(解釈)割礼を受けるとは、霊的にどのような意味があると思いますか?(ローマ2:25-29)

アブラハムとその子孫に約束された神の祝福にあずかることができるという意味

(適用)主が今日のキリスト者に求めている「心の割礼」とは、どのような事ですか?

神様の救い、祝福にあずかるものとして生きる。自分勝手な思いではなく、主に信頼して歩む信仰。

<心に残ったみことばや気づき>

実際に、割礼という行為をしなくても、「心の割礼」を受けていればいい。目に見えるものに弱い私たちのために、目に見える行為を神の民のしるしとして提示してくださった。しかし、今度は私たちはそのしるしにこだわり、形だけの信仰になっている。

<今日の祈り> (教えられたことを短い祈りで表す)

信じて洗礼を受けても、それが心砕かれ神への完全な信頼となっていなかったら意味がないことです。心の割礼、心の洗礼をいつも意識して生きていくことができますように。そして、何よりも神様の祝福を貪欲に求めることができますように。アーメン

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