創世記3章1〜7節
「キリスト教は人を罪人扱いするが、人様に迷惑をかけるような罪は自分にはない」
「ニュースで報道される犯罪者は自分とは程遠い存在だ」
責められることになると・・・
「自分も悪いところがあるかもしれないけれど、あんなことをしているあの人よりはマシな人間だ」
「あの状況ではしょうがなかった。他の人もやっているからつい。私を責めるのだったら、むしろ他の人はもっと酷いことをしているし、長くやっていたのだからあっちをまず責めるべきだろう」
どこかで上記のように思いたい、というか、思ってしまっている自分がいるのです・・・でも実際に自分がしてしまった恥ずべき行いは消えることはないし、償い切ることもできない。さらに知らず知らずのうちに周りに大きな悪影響を与えてしまっているのだろう。今日もみことばから学ぼう。
主イエス・キリストの 2024年1月18日(木) 聖書箇所:創世記 3:1-7(P.6)
<霊的備え>
私は心を尽くして 私は主に感謝をささげます。あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。
私はあなたを喜び 誇ります。いと高き方よ あなたの御名をほめ歌います。(詩篇 9:1―2)
<理解の手引き>
ここでは、蛇が人と会話をし,人を誘惑し、罪に陥れます。これは普通の動物とは、様子が違います。その背後に蛇を使う存在、サタンを考えざるを得ません。
蛇は人の誘惑に際し、一心同体ではあるが、神から直接には命令を受けていない助け手の女性を用いたのです。蛇は神の言葉を改ざんし、神が人を束縛する存在であるかのような印象を与え(1節)、神の唯一の禁令を過度に意識させるのです。女はそんな蛇の誘惑に乗せられ「それに触れてもいけない」 (3節)という言葉を付け加えて、神の言葉を変えてしまいました。その女に蛇は畳みかけます。神は人の目が開き、人が神のようになり、善悪の知識を得ることがないように、あの木の実を食べないようにと言ったのだと。こうして蛇はついに、神の言葉を否定し、神への信頼を失わせたのでした。このように悪魔の誘惑というのは、徐々に、弱い所からやってくるのです。
<考えてみよう>
(観察)蛇が女をどのように誘惑していったか、段階を追って観察してみましょう。
神様が木から食べてはならないと本当に言ったのですか。あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。
(解釈)何故、女は蛇の誘惑に陥ってしまったのでしょうか?
蛇に死なないと言われ、その木は、食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかったから。
(適用)ここから、罪の誘惑に対して、どのようなことを学ぶことができますか?
人間は弱く、誘惑にすぐ負けてしまうということ。
<心に残ったみことばや気づき>
”しかし、園の中央にある木の実については、あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰られました。”(創世記3章3節)
正確に神のみことばや思いを覚えることもできずに、自分の勝手な解釈を挟んでしまう罪。神よりも自分ファーストな罪。
<今日の祈り> (教えられたことを短い祈りで表す)
私たち人間は、本当に弱くて小さい者です。そんな者でも神様は愛してくださいますから感謝します。アーメン